バリでの起業

バリ島での起業

私達がバリ島で起業したのは、もうかなり前、30年くらいになるので、今と違う状況だった。
土地の価値も人々もほぼ自給自足の生活をしている時だった。
村には、公民館(バンジャール)に一つとかテレビがあって、道もボコボコ、車さえ持ってる人はいなかった。
そういう時期の企業だから、今とは全く事情が違う。今は、たくさんの人々が現地人外国人を問わず、同じような職種、観光関連の企業や物販、生産品全てを網羅していて、その資本となる土地にたいそうな価値がついてきている。

通貨危機

その時代の遍歴をこれほどあからさまにそして、資本主義の波をこんなにたくさん見れた人も少ないかなと思っている。1997年のアジア通過危機の時には、通貨の暴落とそれによって暴動が起こり、正常不安から政治体制までひっくり返った。
そこで、平和なバリには、人々が土地を求めてたくさんやってきた。
通過暴落の前には、シンガポールからたくさんの金融関係の方がバリで豪遊していた。そして、その後通貨の暴落後、ドル換算すると、今まで5で買っていたものが、1にまで一夜で下がる、そういう中彼らはたくさんのバリの何かを買い出ししていったに違いないと思う。
その後、半年か1年をかけて、物価が上がっていったというより、追いついていったという方がいいのであろうか。
これは一例であるが、こうような資本主義の実情をインドネシアにいたおかげで見てくることができた。
お金や資本というものがいかにゲームのように上下し、それによって人々の生活も環境も影響を受ける様を見てきた。
幸い、私たちは外貨で取引をしていたので、それほど影響を受けなかったが、原材料を外国から輸入したり、借金を持っていた人々は、ほぼ5倍になった金額を見て、呆然とするしかなかった。

今コロナの時期になり、たくさんの観光業が閉店させられ、国内に原材料とお客を持つ企業しか
残れなくなっている。
そういう中で、従業員の解雇も相次いでいたが、前回も書いたように、そこはバリ人はこの状況を受け入れて、大人の対応で声をあげてオーナーを非難するものはいない。
しかし、こういう時だから、その貨幣経済によらないその絆が試される。

従業員は子供

昔、日本のホンダの金型工場の経営者丹羽さんから、その経営者道を教わったことがある。
「従業員を子供と思って、経営して、子供として経営しなさいな。」
とても軽快でそして重い言葉だった。果たしてこういうことができるのだろうか?
長年、経営というものをされてきた肩で先輩として尊敬している方の言葉であるので、大切にしたいが、何か、とても軽快だけど、自分にはとても高い理想に思えていた。

インドネシア語でも従業員のことを『Anak buah』子供達という。
何か、文化的な共通点があるのだろうとは思っていた。

それから、25年近く四半世紀の時間が過ぎて、このコロナ危機を経て、今日やっとそのずっと心に残っていた言葉を理解したと報告できた。
そういう丹羽さんは、もうここにはいない、私たちに言わず、静かに身をひかれて他界されている。その死を教えてもらったのは、お葬式の日で、何も言わず旅立たれた。その彼の侍的な生き方を見るにつれて、その言葉の意味もなお私にとっては胸に詰まるものとなっている。

「丹羽さん、ありがとう、やっとそこまでいけました。やっとあなたの言われた言葉の意味がわかるようになりました。」
数少なくなった従業員は、ありがたいことに私のことを親としてみてくれて、彼らのために仕事をしている。彼らがいなければ、辞めていると思う。
皆で彼らと一緒に生きる、最後の瞬間に一緒に生きたという思い出があることが目標となっている。ほぼ大きな家族である。
その思いが丹羽さんの言葉と一緒になって、涙が出る。

確かに皆が皆今一緒に仕事ができているわけではないし、今まで大変な失望もあったし、色々な経験をしてきた。その度にsmileさんの明るさに励まされ、従業員の慰めに励まされてきた。
“一緒に生きてみる“ていうことは、その思い出は、あの世に持っていけるものらしい。
コロナはそれをこの機会に教えてくれた。

論理の土台にある思い

そして、貨幣経済という大きな流れで動かされ、勝手に人々の生活を指示と共に変えていく経済のあり方も見てきた。
経営者は、冷静に論理的に先を見通す責任もある。
今後、また、インドネシアは貨幣経済の波に飲まれていくと思う。
また、冷静な頭で、子供達の未来を感げていきたいと思う。

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ABOUT US

HiromibaliProducer
ほぼ30年バリ島に滞在しており、日本とバリの往復しています。またその間に海外の聖地を回っています。澄み切って透き通った蒼い色が好きです。